ポストカード(大陸への大動脈)
 明治後期の日露戦争での勝利以降、日本は中国大陸、とりわけその東北部−満洲へ一層、視線を注ぐようになります。そして、敗戦により手を引くまでの約半世紀近くのあいだ、渡航目的は様々な人々の思いを乗せ、日夜大陸と日本を多くの船が往復していました。
 戦後、日本と大陸は近くて遠い関係の時期が長く続きましたが、今日では東アジアの国々との結びつきの中で、再び多くの国際航路が運航されるようになりました。

Issued by Osaka Shosen Kaisha / Dec. 1935?
 満洲へのメインルートとも言えるのが、大阪商船による、神戸〜門司〜大連線です。「日満連絡船」という名の通り、神戸・大連双方から頻繁に出港しており、高い需要をさばくために、数年ごとに次々と新造船が投入されていきました。これは、1935年(昭10)に就航した「熱河丸」の乗船記念絵葉書と、その裏面です。

 神戸から乗船した人が、京都在住の知人への挨拶に投函したもののようです。『いよいよ今日、門司を立って満洲へ向ひます』という一文が、未知の大陸へ渡る人の期待と不安を象徴しています。
 『京都で下車出来なくて残念でした。』とありますが、投函者はその後、帰国して京都の知人に会えたのでしょうか? それとも、時代の流れの中で、永遠に合えぬまま終わったのでしょうか?

Issued by Nihonkai Kisen Kaisya / ca. 1940
 敦賀や新潟から、朝鮮半島北部への航路を運航した、日本海汽船の絵葉書より。1940年(昭15)頃と推定されます。(なお、北日本汽船は同社の前身) 左の写真は、もと鉄道省の関釜連絡船を改造した、その名もズバリ「滿洲丸」です。

 右は3枚セットの絵葉書のカバーで、和服の女性と中国服の女性が描かれています。満洲が、日本の「友邦」として宣伝されていたことを意識した図柄です。しかし、左の絵葉書には、日本兵に花を贈る現地女性の姿が見られ、「友邦」が日本の軍事力で維持されていたことと、友であるはずの双方の人々が、本当の意味で対等な関係であったのか?という点を象徴しています。

Issued by Nihonkai Kisen Kasya/ ca. 1940
 日本海汽船からもう一隻。敦賀〜清津・羅津線の「気比丸」です。(船名は、発着地・敦賀の「気比神宮」から)
 日本海を横断するこの航路は、満洲と朝鮮半島北部の鉄道が整備されてからは、満洲国の首都・新京へダイレクトに連絡する航路としての位置付けが増大します。「気比丸」は、そうした需要の高まりの中、1939年(昭14)に就航しました。

 しかし「気比丸」は、平時にもかかわらず、悲劇的な最期を遂げることになります。
 開戦間近の1941年(昭16)11月5日夜、敦賀へ向かう途中に、日本海上でソ連のものと思われる、浮遊機雷に接触し沈没。晩秋の荒天の海上で、百名を越える乗員乗客が犠牲となりました。

Issued by Japanese Government Railways / ca. 1937
 高まりゆく日本と大陸間の往来の需要に応えるため、鉄道省が満を持して投入したのが、関釜連絡船「金剛丸」「興安丸」の姉妹船でした。この姉妹船は、単に大型というだけではなく、設備の面でも全室冷暖房完備とするなど、当時の最新をゆくものでした。
 これは大陸へ渡る人が、見送ってくれた関係者へ出したお礼の葉書です。(1937年−昭和12年)

『御見送り有難う御座居ました。 (中略) 待合室で30分待ち、8時30分に廊下をずっと行き、8時40分から9時まで廊下で待たされ、9時にやっと船に乗りました。船はタイル張りで仲々立派です。速力も端島のよりずっと速い。 (中略) 船内はすしづめで寝られません。 金剛丸中にて 健一 5月16日11時半』

 新造大型船への驚きと、当時いかに大陸との往来が激しかったかを物語るような、貴重な文面です。なお、やや不鮮明ながら、船名の由来である朝鮮・金剛山の奇岩がデザインされた、乗船記念スタンプが右上に押されています。

Issued by Japanese Government Railways / ca. 1937
 姉妹船のもう一隻は「興安丸」です。上の「金剛丸」のものと同様、広島鉄道局が発行したもので、こちらは未投函ながら、やはり乗船記念スタンプが押されています。(図柄は船名の由来である、北部満洲の山岳地帯・興安嶺をイメージ)

 「興安丸」は数奇な運命の一隻として、たびたび話題に上ります。戦前の関釜航路での活躍、戦後の引揚船としての活躍、そして民間会社で遊覧船やチャーター船として使われた晩年・・・。激動の33年間を生き抜き、実に1970年(昭45)まで現存することができたのは、この船にかける人々の思いの深さと運の良さが成し得た、ひとつのドラマとも言えるかもしれません。
 しかし、その陰には、関釜連絡船の船底に詰め込まれて日本へ渡り、強制労働に従事した多くの人々がいたことも又、忘れてはならないと思います。

Issued by PUKWAN Ferry / ca. 1970
 金剛丸・興安丸の就航した鉄道省の関釜航路は、大戦の終結と共に幕を閉じましたが、その後も九州郵船などの民間会社によって、日韓航路は維持されてきました。そして、1970年(昭45)に大きな転機が訪れます。
 日本側の「関釜フェリー」と、韓国側の「釜関フェリー」両社の共同運航という形で、日本初の国際カーフェリーが下関・釜山間に運航開始。上のポストカードは当時の就航船「フェリー関釜」(初代)です。釜山港での撮影と思われます。
 当初は1隻による隔日運航でしたが、その後韓国側の船も登場して毎日運航になりました。初代の「フェリー関釜」は1976年(昭51)に引退し、輸送力の増強とともに現在では3代目が就航しています。
 さらに、JR九州による水中翼船も就航するなど、まさに日韓は気軽に往来できる隣人になった感があります。
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