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大陸の玄関・大連へ−日満連絡船

次々と投入される新造船
 満洲の玄関口であった大連と日本を結ぶ航路は、「日満連絡船」と呼ばれ、日露戦争以降、大阪商船が主体となって運航していました。
 当初は他の航路から転属した船を使用していたこの航路も、1932年(昭7)の満洲国建国後、日本と大陸の往来が盛んになると、大型の船が次々と投入され、輸送力の拡大が図られました。下に紹介する各年の出港スケジュールも、掲載された写真から新造船が就航していった様子がわかります。
 下段左は「熱河丸」、中段右は「黒龍丸」(こくりゅうまる−満洲・ソ連国境の河川名)です。

 神戸を昼に出港した便は翌日、門司に寄ったのち、4日目の早朝に大連に入港するスケジュールが組まれていました。大連埠頭から大連駅までは連絡バスがあり、特急「あじあ」等、満洲の核心部へ向かう列車に接続していました。
OSK 1934/04

1934(昭9)年4月
168mm×188mm 一枚
OSK 1935/07

1935(昭10)年7月
145mm×82mm 六つ折
OSK 1937/06

1937(昭12)年6月
188mm×97mm 六つ折
OSK 1938/09

1938(昭13)年9月
188mm×97mm 五つ折
遠洋航路の客船も日満連絡の輸送力増強へ
 こうして日満往来の第一線を担ったこの航路も、戦雲が垂れ込めると一層重要性を増しました。以下は太平洋戦争開戦の年の出港スケジュールです。この頃になると便数が増大し、ほとんど毎日、神戸と大連双方から出港しています。
 表紙のデザインも、当時の日本の拡大思想をイメージさせますが、そこに描かれている船は、第2次大戦の影響で縮小された、南米・アフリカ航路に元々就航していた新鋭船です。
OSK 1941/04

1941(昭16)年4月
181mm×90mm 三つ折


「あるぜんちな丸」は元南米航路の客船でした。
関連項目

大陸支配の尖兵「満鉄」と「あじあ」号(南満洲鉄道、1915年−1935年)
満洲の心臓部へ日本海の荒波を越えて(北日本汽船、嶋谷汽船、日本海汽船、1933年−1939年)
国策によって再編された日満連絡最短ルート(日本海汽船、1941年)
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