ファースト・フライト・カバー(1960年代)
キャセイ・パシフィック航空/大阪・香港線開設記念 1960年(昭35)4月2日

 海外の航空会社が、東京以外の日本の空港へ定期的に乗り入れた初期の例は、昭和20年代を中心に、英連邦系などの航空会社が岩国に発着していた例が存在する。しかし、これは岩国基地が英連邦軍の拠点だったことに由来していると思われ、純粋に商業的な観点での乗り入れは、この時のキャセイ・パシフィック航空の大阪乗り入れが最初である。
 前日の4月1日に、香港発のDC-6Bプロペラ機が、初めて大阪に立ち寄った。この封筒は、翌日の復航で大阪から香港まで運ばれたもの。「KYOTO OSAKA KOBE」発着とうたい、関西圏としてとらえられている点が、この乗り入れの重要性を物語っている。
 戦後の大阪空港は、長らく米軍基地として使われていたため、写真を見ると、1960年(昭35)当時には今日のような立派なターミナルビルなどはなく、カマボコ型兵舎やそれに類するバラックで旅客扱いが行われ、観覧者も木の柵で囲われた芝生の上のベンチで見ていたようである。しかし、わずか10年後には、万国博覧会という大イベントがその姿を一変させた。
 
 
日本航空
ジェット機就航記念
1960年(昭35)8月12日


 パンナムに遅れること約1年、従来のダグラスDC-7Cプロペラ機に替わり、ダグラスDC-8ジェット機が日航の太平洋線に投入された。
 富士山と金門橋をあしらった特別印が見えるように、当初の就航路線は東京〜ホノルル〜サンフランシスコであった。
 この第一便に使用された機体「FUJI」号は、1988年(昭63)にスクラップにされたが、歴史的機体だけに、機首部分だけは、羽田空港の格納庫内に今も保管されている。
 
日本航空
ポーラ−・ルート開設記念
1961年(昭36)6月6日

 前年の太平洋線のジェット化の後を受け、それまではエールフランスとの共同運航であった北極経由欧州線の、自主運航が開始された。 以来、シベリア横断ルートが主流となるまでの約30年間、日欧を結ぶ大動脈として活躍を続けた、いわゆるアンカレッジ経由である。
 自主運航当初は、DC-8型機を使用して、コペンハーゲン・パリ・ロンドンに発着したが、のちにアムステルダムやフランクフルトが加わり、機体もジャンボ機に替わっていった。ジャルパックの団体で賑わったのも、今は昔である。
 
ガルーダ・インドネシア航空/ジャカルタ・東京線開設記念 1962年(昭37)3月24日

 「フジヤマ、ゲイシャ」という、かつての典型的な日本のイメージを具現化したデザインが、とにかく目をひく一枚。しかし、素朴ながらカラフルな色使いは、封筒に記念スタンプを押して仕立てることが多いアメリカ系のフライトカバーに比べ、とても趣が感じられる。
 左下に見えるロゴは「エメラルド・サービス」と書かれている。タイ国際航空の「ロイヤル・オーキッド・サービス」と並んで、東南アジア系航空会社の香りが存分に伝わってくる商標である。
 ガルーダ・インドネシア航空は、ロッキードL-188 「エレクトラ」 4発プロペラ機で東京に乗り入れた。「エレクトラ」は、それまでのピストン・エンジン機に替わり、ジェット機までのつなぎとして開発されたターボプロップ機であるが、まさにそのストーリー通り、同社の東京線は翌年ジェット化された。
 
 
全日空(全日本空輸)/東京・札幌線 ボーイング727就航記念 1964年(昭39)5月25日

 昭和30年代、日本航空と全日空は新機種の導入と、時間短縮による激しい競争を繰り広げており、国内線の本格的ジェット化でも熾烈な争いが起きることは目に見えていた。こうした背景のもと、「国内線専用ジェット機は、両社とも同一機種を採用すること」という勧告がなされ、その結果両社に導入が決定したのが、ボーイング727型機であった。
 ところが全日空は、正式導入に先駆けて、また日本航空が同型機を導入する実に1年以上前に、メーカーからチャーターしたボーイング727を、東京〜札幌間に就航させるという奇策に出た。これは、その第一便で運ばれたものである。航空会社自身が特別デザインして作成した日本の国内線に関する記念封筒自体、あまり種類を見ないだけに、その気合の入れ方がうかがえる。
 ボーイング727は、その高性能を生かして都市間飛行時間の記録を次々と更新するなど、国内線ジェット化初期における華やかな活躍は「夢のジェット」として話題になり、全日空の奇策は大成功を収めたのである。
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