港の風景(神戸港)


東の横浜・西の神戸
 西日本を代表する港町−神戸港をご紹介しましょう。
 上は、その名もズバリ「港は神戸」と銘打った、神戸市発行のパンフレットです。表紙の歯車のようなデザインは、神戸港の突堤の配置を表したものです。内部は、右上に見られるような港の案内図と、主要なポイントの解説になっています。

 神戸港の中心であるこの地域の配置は、現在もあまり変化はありません。ただし、中央に見える中突堤と、その右隣のメリケン波止場の間は埋め立てられ、公園になっています。

 線路のしるしも見え、当時の港にはつきものであった臨港線の様子がわかります。「神戸港駅」という表示が見えますが、実際は第四突堤に分岐している線の末端にある駅が「神戸港駅」として、欧洲航路の出帆日には、京都から船客向け臨時列車がここを目指して運転されていました。

 中央の最上部に「移住教養所」と書かれていますが、ここは海外移住者(いわゆる移民)が出国前に一時収容され、身体検査と諸手続きや教育が行われた建物です。戦前の神戸は、南米等への移民の出発地でした。この様子は、作家・石川達三の著書「蒼氓」に象徴的に描かれ、今に伝わっています。
 神戸市発行の月間催事案内には、港町らしく各航路の入出港予定が記されていました。右は、表紙に押された三ノ宮駅スタンプの日付から、1934年(昭9)5月のものとわかるものです。

 浅間丸や秩父丸といった、当時の日本を代表する豪華客船の名前も見られます。
日本の玄関口として
 上は、戦前に神戸港がおそらく最も賑やかであったころ、1939年(昭14)年1月の、大阪商船の神戸出港スケジュール一覧表です。ひとつの船会社でまとまった予定表が出来るくらい、多くの船が出入していたことを象徴しています。
 その内容は、インド洋や太平洋方面の遠洋航路から、アジア地域の近海航路まで、あたかも現在の成田空港や関西空港の時刻表を見るようなスケールを感じさせます。

 大戦を生き抜いた船と戦没した船、間近に迫る運命も知らず、多くの船舶が海運国日本を支えて活躍していました。
 左欄外には、沖縄視察団の募集案内。乗船予定の「浮島丸」は戦後、舞鶴で謎の爆沈事件の舞台となる、数奇な結末が待っていました。
 






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