羽田空港半世紀の歴史
発祥篇



「羽根田穴守神社」 - 明治末〜大正頃?
年譜その1

1800年頃
この地域で干拓が行われた。

1885年(明18)
穴守稲荷ができる。

1902年(明35)
蒲田−穴守に電車が通じる。
行楽地として賑わう。

1917年(大6)
「日本飛行学校」がこの地に開校。
 空港と神社の絵葉書がどう関係あるのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、羽田空港の成り立ちについて語るとき、この絵葉書に描かれた「穴守稲荷」の話を外すわけにはいきません。なぜならば、現在の羽田空港の敷地の一部は、まさにこの神社の境内だったからです。

 穴守稲荷は明治中期にでき、多くの人々の信仰を集めてきました。もっとも、花柳界や賭け事といった、いわば俗的な分野での御利益も支持されていたようで(ヒント:「穴」)、その参道も料亭や旅館で華やいだ雰囲気だったといいます。

 穴守稲荷神社のホームページはこちら。(戦前の資料展示もあります) → http://anamori.jp
絵葉書で体験する戦前の穴守稲荷参拝
 稲荷の周囲には、古い漁村の生活がありました。右は推定ながら、今の羽田東急ホテルから、旧国際線到着ビルの辺りにかけての風景と思われます。

 陸に打ち上げられた小さな漁船が見えます。このあたりは潮の干満の差がはっきりしており、干潮時には広い干潟が現れました。
 そして、この広い干潟を利用して、飛行訓練が実施されたりしていましたが、穴守稲荷の隣に1931年(昭6)夏、正式に飛行場が開場しました。後の東京国際空港のはじまりです。

「羽田穴守東海(貫?)橋」 - 明治?
 今では信じられないかもしれませんが、戦前の羽田は、遠浅の干潟を生かした海水浴場が有名でした。上は、1932年(昭7)に京浜電鉄(今日の京浜急行電鉄)が発行した案内です。
 穴守駅から徒歩3丁(約300メートル)、海の家や海水プールなどの施設があり、7月10日から9月10日まで開場と記されています。略図には、穴守稲荷や「東京国際飛行場」も描かれていました。

 その後、飛行場は1938年(昭13)頃に拡張工事が行われ、その際に海水浴場の辺りも敷地に取り込まれてしまったようです。現在のB滑走路の西南端あたりがその位置であったと思われます。

 夏には海水浴客、冬には海苔養殖の上をかすめるように、小型のプロペラ機が爆音を響かせて飛んでいたのでしょう。都市化が進んだ現在から想像もできない、のどかな様子がうかがえます。しかし、レジャーや果ては飛行機という時代の先端の産物が、古くからの信仰や自然の中に混ぜこぜになったというところに、この土地の独特の味わいがあるとも言えるのではないでしょうか?
年譜その2

1929年(昭4)
国策会社の日本航空輸送が運航開始。
(但し、羽田開港まで東京は立川発着)

1931年(昭6)
東京飛行場開設。羽田空港の歩みが始まる。

1938年(昭13)頃
空港拡張工事で滑走路増設。

1939年(昭14)
毎日新聞社「ニッポン」号の世界一周飛行。
羽田から56日をかけて世界東回り。
 羽田空港が出来た頃は、このような飛行機が主力でした。当時の代表的な航空会社であった「日本航空輸送」が運航していた"フォッカー・スーパーユニバーサル"です。なお当時は、舗装された滑走路もありましたが、大部分は草地になっていました。
 背後には同社の格納庫と、空港ターミナルビルが見えます。2階建ての空港ターミナルビルは小振りながらも瀟洒なつくりで、ガラス張りの半円形の待合室もありました。

※なお、ターミナルビルと格納庫の位置関係を覚えておいてください。あとで出る画像を理解するのに役立ちます。

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